知人の訃報に思うこと

もう20年近く会ってはいない古い友人の訃報を受けました。それは非常に色々と考えさせられるものがありました。

考えられさせるばかりで、何もまとまってはいないし、人にお話できるような内容ではないのだけれども、この年になって全く毅然とした態度が取れない自分を非常に恥ずかしく、情けなく思っています。
去年の早春に大学の同期が桜を見ることなく去っていきました。その時は、同窓の皆は即効で都合をつけて京都に駆けつけて、通夜、告別式と過ごしていました。私といえば充分に時間がとれただろうに結局グズグズして通夜には駆けつけられず、告別式の朝、故郷いりしたのでした。
結局その日彼の姿をみた私はすっかり取り乱してワンワン泣いていて情けないなと思ったのですが、改めて仲間たちを見ると、皆前日から対面しているので憔悴しきった顔からはすでに私の状態を通りすぎて、このお別れの儀式を迎えている毅然とした姿勢が見て取れました。
私は正面から向きあえずに遅れてきて、落ち着き始めた皆の前でひとり取り乱していました。

今回はどうだろうか。
仕事の帰りに、駅のホームで倒れて、そのまま帰らぬ人になったそうで、受け入れがたいのは身内の方々なら尚更の事のように思います。もう私はこの時点で冷静ではいられていないのだと思います。
当時の仲間の一人に連絡が取れないので、心当たりをあたってくれないかと依頼を受けたので、あわててこれももう10年以上年賀状のやり取りしかしていない顔の広い知人に電話をかけて、その人物にリーチすることができたのですが、その知人に仲間の連絡を取り次いでもらわないと結局届かない自分の生きてる範囲の小ささに改めて愕然としました。愕然とした?いや、ちょっと違うな。見ないようにしていた自分の生きてる範囲の小ささを直視しなければならない場面に会った。というほうが正しいか。

僕はその知人は非常に尊敬し大好きな人物だったので、久しぶりに話せた内容が訃報の知らせを取り次いでもらう依頼の電話。すまない。申し訳ない。でも、今回も君に頼りるしかなかったのだよ。もうこれで、すべての君に対する関係性の運を使い果たしても、仕方のないそれは私の不徳のいたすところなのですから。

兎にも角にもありがとう。

ご遺族の心の痛みが少しでも早く癒えますように。明日は普通に仕事をしてお通夜に向かうつもりでいます。

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